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解説 犬神家の一族 [2002年自閉症カンファレンス講演会]

学校の怪談
その死 犬神家の一族

中一の三学期

三点倒立の実技試験であった。
球技がまったくダメな私が点数を稼げるのはマット運動ぐらいだから必死だ。
授業中にマスターできなかった私は、夜毎ふとんの上で、
母親にモニターしてもらい、頭頂部がへこむかと思われるほどの練習を重ね、
やっとのことでコツを掴み、試験に臨んだのだった。
試験は長いマットの上に、出席番号順に並ぶだけ並ばされ、笛の合図で一斉に倒立する。
私は最初のグループだったが、もちろん猛練習の甲斐あって楽々クリア。

しかし・・・・・・いくらたっても「やめっ!」の笛が聞こえない。
頭に血が昇る、マットはふとんほど柔らかくないので頭頂部は痛む。
いったいいつまでさせるんだろう、おかしい、と思った瞬間、
体育館にあのなじみの不気味な静寂が・・・・・

(あっ、やめっの合図なしなんだ)、私はパッと倒立をやめた。
ところが・・・・目に入ったのは逆さになった足、足、足、・・・みんなは延々と倒立し続けていた。
マットの真ん中であぐらをかいていた教師は、
「誰だっ!勝手にやめるやつは!」と怒鳴りながら立ち上がり、
「おいっ誰がやめろと言った!あっ、この野郎、おまえか
私はもう一度倒立しようとしたのだが、
「やらなくていいっ。そんな態度の悪いやつにはもう点数はやらないっ!」
と、またまたえんま帳に付けられる。
その学期の体育は本当に1だった。

注記:目の上のたんこぶ

   ネットや書籍上の自称発達障害の人達には全員必ず「気に掛けてくれた先生」がいる。

   私達夫婦も子供時代「先生が気に掛ける生徒」だったのだが、ニュアンスは全く違う。
   気に掛けると言うより気に障る、つまり「目を付けられた」が正確な所だろう。


   妻のこのエピソードを繰り返し繰り返し聞いている内に、意図が読めない私でもこの体育教師
   中島悟の意図は何となく分かってきた。(私も同じ様な体験をしてるからね)

   これも現役教師のコメントを聞きたいモノだ。我こそという方どうぞ。


   私の現在の解釈としてはこうだ。
   教師は成績を付けなければいけない。当時は特に1はクラスに二人必ず必要だと言われていた。
   授業中から目星を付けテストに臨む。
   実際やってみると、目星を付けた生徒が意外に出来ている。さて困った。
   生徒に「出来ればOK」とは言ったが急遽耐久テストへ変更だ。

   まってもまってもなかなか落伍しない。おっ、やっと一人。案の定コイツか。丁度良かった。
   殊更大げさに騒いでおくか「コラッ!やっぱりオマエか!」しめしめ、上手く行った。
   

犬神家の一族
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つづく

【自閉症テレビ33】出来ない事



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解説 ゴーゴンの呪い [2002年自閉症カンファレンス講演会]

学校の怪談
その参 ゴーゴンの呪い

中一の二学期の中間試験(応用が利かない)
試験官は担任の美術教師だった。
夏休み明けの席替えで、あみだくじにはずれた私の席は、教壇の真ん前である。
やがて目の前に人数分のプリントの束が置かれ、一枚取って後ろへと回す。
「えーっと、まだ早いので用紙は伏せておいて下さい」言いつつ教師が教壇に戻る。

私はプリントを裏返し、手を膝に置き、「始めっ」の合図を待つ。
合図を見逃すまいと美術教師の顔をじっと伺う。
向こうもこちらを見ているが、何の表情もない。
この美術教師は入学式直後のホームルームで、
黒板の上に飾ってある「根性」の額を見て鬼瓦のような顔になり
「俺は根性という言葉が大嫌いだ。はずせっ!」と生徒に命令した教師である。
そんな教師が至近距離で無言、無表情でいるのは不気味だ

見つめる、見つめ返す、見つめる、見つめ返す。
その距離1メートル弱。しかしいくら待っても「始め」の合図はない。

注記:
   「目を合わせないから発達障害」これは一時期大いに宣伝された事で、これを根拠に発達障害が
   爆発的に増殖した。
   どうも、統合失調症の患者グループが統合失調症を嫌って発達障害にすり替えよう、
   統合失調症という呼び名を消し去ろう、とした様だ。
   同時に、幻聴が聞こえる発達障害、幻覚がある発達障害と言う話まで蔓延していた。
   発達障害なら生まれつきの障害だから良い、統合失調症は自分のせいだから悪いと思うらしい。


   自閉症の特にカナー型の場合、なぜ目を合わせてくれないかと言うと、目を見る必要性を
   感じていないからだ。
   名前を呼ばれても聞こえているんだから目を見る必要はない
   ところが、「カラコロ」というデンデン太鼓の音は、「あれっ?」と気になるから見る。

   自分の名前は聞こえているし、自分の名前と分かり切っているから見る必要はないが、
   デンデン太鼓の音は気になる(不思議)から見るのだ。これ重要。

   ある程度知能が高い自閉症、つまり私の場合、4才と3ヶ月位まではカナー型の子供と同じ態度
   で、名前を呼ばれても一瞬見て「なんだ用は無いんだ」と手元に目を戻す。
   だから、その頃までの写真はレンズを見ていない。

   しかし、成長と共に知識として相手がカメラを持っているときはカメラを見る。と学習する。

   私達自閉症は、知能が低くても高くても根本的根源的本能として目でコミュニケーションを
   取る能力が欠けている。だからこその自閉症なのである。

   ではどうしているか。すべて学習して獲得するしかない。カナー型の子は知能なりに。
   知能が高ければ、そのシチュエーション、相手の口調、相手の顔色(本当の顔の色)
   つまり、真っ青だったり、真っ赤だったり。

   日常生活では、「人の話を聞くときは目を見る」とか色々仕込まれる。

   だから、自閉症の子は目を見ない、は、相手が気付くまで見続けないと言うだけだ。

   さて、カナー型の子は別として、何かと人の目を見なければいけないと強要され続けている
   私達は、常に人の目を見る。(統合失調症になると人の目が怖くなるらしい)

   この人の目を見ると言うのが実はくせモノで、トラブルの原因になる。

   女の子が人の目をじっと見る。日頃人の目を見なさいと言われているから尚更だ。
   じっと見る。相手が男の子なら「俺の事好きなのか」と勘違いする。
   じっと見る。相手が変質者なら「あの子ならてなづけられそうだ」と勘違いする。
   男の子が人の目をじっと見る。相手が女の子なら「○○君××さんの事好きなんだよ」と噂される。
   男の子が人の目をじっと見る。「テメー、誰にガン付けてんだよ」と因縁を付けられる。


   自閉症の子供を持つと「目を合わせてくれない」と言うのが親として先ず悩むらしいが、
   ちゃんと見てるのは間違い無い。ただ、目を移すのがあまりに早くてお母さんが気付かない
   だけだ。

   そして自閉症には、「不適切な視線」という特徴がある事も覚えて貰いたい。
   目を合わせないのが自閉症では無く、見続け過ぎるのも自閉症の大きな特徴なのである。


   じっと見ているのでは無い。相手がじっと見るからいつ目を離すのか見ているだけだ。

   本来「ヒト」と「ヒト」が見合えば、言葉に表れない言語(メタ言語)でなんらかの応答が
   あるのだろうが、
   私達は純粋に「見る」ひたすら見る。何か意味が飛び出して来るまで「見る」しか出来ないのだ。


遅い、遅すぎる!プリントが配られてからかれこれ三十分ではないか。
すると辺りにはまたもやあの不気味な静けさが・・・。
あっ、もしや試験は合図無しで始まっているのか?
ついにたまりかね、隣は櫻井さんで懲りたので、肩越しに後ろの席の子に、
「ねえ、始めていいの」、
「始めていいって・・・何を」試験中に話しかけられ困惑した声。
このやりとりを真っ正面で見ながらも、無言無表情の担任教師。
やはり試験は始まっていた。
きゃぁぁぁぁ、
声にならない叫びとともに私はプリントをっひっくり返し、
がくがくする手で鉛筆の芯をバキバキ折りながら、
何とか答えを書き込もうと無駄な努力をするのだった。
因果は巡る。それから10年の後。
二十一才の私はガラガラの都営バスで、この美術教師と向かい合わせになった。
見つめる、見つめ返す、見つめる、見つめ返す・・・・・・・
都営バスとベンチシートの向こうとこちらで、その距離数メートル。
これぞまさしくゴーゴンの呪い
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つづく

【自閉症テレビ9】目を見ないアスペルガー


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解説 漂流教室2 [2002年自閉症カンファレンス講演会]

学校の怪談
その弐 漂流教室

これも中一の一学期、若葉新緑のころだった。
その朝もいつもと何らかわりなく、弁当を持って家を出た。
テレビでは連続テレビ小説「あしたこそ」をやっていた。
心なしか通学路はひとけがなくてひっそりしている。
一瞬日曜日かと錯覚しドキッとしたが、それなら朝の連続テレビ小説をやっているはずがない。
注記:
   私達も失敗をしたくてしている訳では無い。キチンとテストの時の失敗を糧にこうやって
   テレビ小説が放送していた事を思い出して、自分の行動が不適切でない事を確認している。
   しかし、本人(美代子)はまだ気付かない。

校門のところでやっと向こうから歩いてくる人間に遭遇し、ホッとする。
それは中年の家庭科教師だった。
「おはようございます」、
彼女に挨拶してから先に校門をくぐったが、入り口周辺には誰もいない。
そればかりではない。下駄箱にも誰もいないし、その先に見える校庭も無人だ。
どういう事なのだろう。
上履きに履き替え一年二組の教室に向かったが、途中の廊下にも誰もいない。
両側の教室からも人声がしない。
予想していた通り、一年二組の教室にも人っ子ひとりいない。
しばらく自分の机で呆然としていたが、仕方ないので帰ることにした。
廊下をとぼとぼ歩いていると、突然気が付いた。
あーっ、今日は運動会だ!

注記の注記:概念化できないと言う事の例
      私達自閉症は知能にかかわらず概念化出来ないという事が「ヒト」と生活する上で
      障害になる事が多い。
      感想文が書けないと言う事が分かりやすい例だが、概念化できないとはどう言う事か。

      ネット上のアスペは、「つらくかなしい」と言うと「私もそうです」とわかり合える。
      「生きづらいのです」と言うと「私も、私も、だって私もアスペ」とわかり合える。

      この「つらくかなしい」「生きづらい」「いきづらさ」と言うのが概念での理解であり
      これらが簡単に理解出来るのは、概念を理解出来る「ヒト」であり、
      その時点で、自閉症のグループ、自閉症のスペクトラム上には生きていない事が分かる。


      私達はどうなるか。この漂流教室の話を聞いたら一通り笑った後に
      「そう言えばこんな事が」「そう言えばあんな事も」とエピソードに対して、
      同じ様な感じ方をしただろうなと言うエピソードがつぎつぎ出てくる。

      もちろん、そんな話が出てくるのは本当に稀少で、まだ数人にしか出会えていない。


      では、私の同様のエピソードは。といっても、さすがにこれ程凄い話は私にも無い。

      私はどうもノロマであったようで、体育の時に着替えるにしても何かで集合するにしても
      いつも最後になってしまう。
      だから、誰もいない教室から慌てて出て行く光景は日常で、小学4年生の教室から
      体操着を着た誰かが走り去り、シーンとした教室を慌てて飛び出し、さらに誰もいない
      廊下を走る場面はいろいろ蘇るが、慣れっこで思い出しても全くドキドキしない。


      さらに言えば、高1の午後昼寝をしていたら余りの静けさに目を覚ますと、誰も教室に
      おらず、視聴覚教室への移動を思い出して、視聴覚教室へ行ったが、もう20分も
      過ぎていて、さすがにもう入れないなとあきらめた思い出もある。
      しかし、「なんだ誰も起こしてくれないんだ」とは思ったが、飛び上がるほど驚いたと
      言う事は無い。

      髙2の春?には、書道部の部室から教室に帰る途中なんだか廊下に人気が無い。
      不思議に思いながら教室へ着いたら、やっぱり人が居ない。廊下の一番向こうから
      「こっちだこっち」と誰かの声がしたから廊下を見たら誰かが何処かの教室へ走り込む姿

      と、校庭の方からスピーカーの声がするから「ああ、体育祭の全体練習か」と気付き
      着替えず校庭へ向かった事もあった。

      でもこの漂流教室ほどひどいエピソードじゃないよな。


      高校を卒業し、大学生か社会人になった後から、あの時誰もいない教室に入り込んで
      いた二人組は、教科書でも盗みに入っていたのかと気付いた。
      あの頃、教科書が盗まれたと騒いでいた奴がいたもんな。

      それだって、この漂流教室ほどひどくない。


      こうやって、「概念化」が出来ない私達は、エピソードを披露しあいながら、
      どっちがヒドイ、そっちがヒドイと言い合っているのだ。



何かに気を取られて忘れていた訳ではなかった
うっかり忘れていたというならまだ救いがある。
今日が運動会だということに、たった今気が付いたのだ
そう言えば先週来、学校全体がザワザワガヤガヤと落ち着かなかった。
すなわち創作ダンスの通し稽古やら、ホームルームで配られたゼッケン、
揃いの鉢巻き、観客席の割り振り、ガリバン刷りのお知らせの数々、
突如として校庭に出現した巨大なベニヤ板のポスター数枚、
ダメ押しで「あしたお弁当どうしようかなあ」という帰り際の友人の不可解な独り言。
これらの意味が、突如として統合されたのだ。
注記:
   小学校5年にもなると普通学級に通う中で「発達の障害」の子供は顕著になってくる。
   ほとんどは、ADHDに含まれる落ち着きの無い子、授業中もしゃべり続ける子、その他で
   数も多いし先輩教師も経験があるからそのノウハウは教師仲間で蓄積されている。
   その教師が、教師生活の中で巡り会うか会わないかの子供が「アスペルガー症候群」の子供で
   対処法などのノウハウは皆無。実績のある書籍も無い。
   そんな子供を受け入れてくれるのが医療機関。今では少数であるが小児発達専門の機関が
   ある様だ。
   そこに集まってくる子供はすべて発達障害かというとそうでは無い。
   今ここで「情報の統合が出来ていない」例を挙げた。
   私達を含む同じ様な子供はよく「トンチンカンな事を言う」。
   これは情報の統合方法が普通に発達した子供より遅れているからだ。
   経験と知識の積み重ねで多少は誤魔化し方が上手くなるが、基本的な部分は変わる事は無い。
   さて、小児発達障害の専門医に集められた子供の中には、別の障害を持つ子供も含まれる。
   それが、統合失調症、或いは統合失調症の前段階の子供だ。
   雰囲気は自閉症の子供と似通っているし行動様式だけを見れば区別が付かない
   特に、情報の統合が出来ていないと言う所は全く同じだ。しかし大きな違いがある。
   やがて成長し統合失調症の症状が出る子供は、統合できない情報の元が人、他人、人間にある。
   漂流教室の情報はすべて事柄で、それらを上手く統合出来ていないから運動会に繋がらない。
   一方統合失調症は「心」を持っているから、「私の噂話をしている」「私の悪口を言っている」
   さらに成長して進行すると、「外に出ると全員がこっちを見る」と言い出したりするが、
   すべて対象物が人間だ。
   さらに簡単に言うと、「生まれつき統合が出来ない」が私達自閉症であり、
   「生まれたときは統合が出来ていて心を持つが、やがて統合が緩み始める」のが統合失調症。
   実際、精神科医の問題として、統合失調症と自閉症の混同が問題視されているし、
   自称発達障害のブログを見ると、自分を統合失調症と認めたく無い人が殆どである。

今日は運動会なのだ。
さあ大変だ。運動会はよそのグラウンドを借りて行われる。
私は急いで家に駆け戻り、体操服に着替えると、支給された鉢巻きをしめ、
ゼッケンとそれを縫いつける為の針と糸、弁当を持ち、
驚く母親に説明するのももどかしくグラウンドに向かった。
15分ほど走りに走り、やっと着いたときには吐きそうになっていたので、
「気分が悪くて遅れました」という言い訳が居ながらにして強い説得力を持った。
開会式はとっくに終わっており、競技が始まっていた。

     そして、静かな日常が戻ったある日。
家庭科の時間、みんなはミシンを踏んでいた。
突然「ちょっと来てくれる」、
あの日校門で出会った家庭科教師が手招きするではないか。
私は血の気が引いた。
てっきり運動会の事で怒られるのだろうと思い、クラゲ状態になって漂って行くと、
教師はやさしく「あなたのおうち遠いの?」と聞く。
安心した私が「いいえすぐ近くです。そこをまっすぐ行って信号渡って、五分くらいです。」
と詳しい道順を教えると、
次は「あなた体弱い?」と聞く。
「いいえ」と答えると、
今度は「あなたのおうち、躾けは厳しい?」と聞くので、
「そんなに厳しくないです」答えると、
教師は「・・・はい、いいわよ」と解放してくれた。
注記:
   この辺は現役の教師に是非聞きたい所。我こそと思う方コメントを。
   この家庭科教師は運動会の当日に着替えもせず一人で登校したこの子供の事情を探ろうと質問。
   しかし、ここに私達自閉症アスペルガー症候群の特徴が出ている。
   1.意図を見抜きふさわしい返答をする。と言う事が出来ない。
     今、61才の私がこう書いていても、彼女の返答は満点でこれ以外の解答が思い浮かばない。
     つまり、教師の質問には何か別の意図があるだろうと理解は出来るが、
     その見えない意図(メタ言語)はそのまんま見えない。今でも見えない。
   2.きっと特徴があるはずだが、私には余りに正しい答えなので特徴を指摘出来ない。
さっぱり訳がわからない
     そして、又静かな日常が戻ったある日。
私は二年生になっていた。
家庭科の授業の真っ最中、同じ教師が、突然「あなた太ったわよねえ」と言う。
教師の言う通りで、二年生になって急激に太ったので「はい」と言うと、
「かわいくなったわ、ねえ」とみんなに同意を求める。
みんなは大笑いするし、さっぱり訳がわからず
注記:
   私も訳が分からない。恐らく教師は自身の中でなんらかの結論を得て、
   太った美代子を改めて遡上に挙げその健康振りを確認し、納得出来たんだろう。

教師も「運動会の日にセーラー服で学校に来た変な子」の謎解きに
二年越しで苦しんでいたに違いない。
漂流教室
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つづく

【自閉症テレビ24】社会性豊かなASD


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解説 漂流教室 [2002年自閉症カンファレンス講演会]

学校の怪談
その弐 漂流教室

これも中一の一学期、若葉新緑のころだった。
その朝もいつもと何らかわりなく、弁当を持って家を出た。
テレビでは連続テレビ小説「あしたこそ」をやっていた。
心なしか通学路はひとけがなくてひっそりしている。
一瞬日曜日かと錯覚しドキッとしたが、それなら朝の連続テレビ小説をやっているはずがない。

注記:
   私達も失敗をしたくてしている訳では無い。キチンとテストの時の失敗を糧にこうやって
   テレビ小説が放送していた事を思い出して、自分の行動が不適切でない事を確認している。
   
   しかし、本人(美代子)はまだ気付かない。

校門のところでやっと向こうから歩いてくる人間に遭遇し、ホッとする。
それは中年の家庭科教師だった。
「おはようございます」、
彼女に挨拶してから先に校門をくぐったが、入り口周辺には誰もいない。
そればかりではない。下駄箱にも誰もいないし、その先に見える校庭も無人だ。
どういう事なのだろう。
上履きに履き替え一年二組の教室に向かったが、途中の廊下にも誰もいない。
両側の教室からも人声がしない。
予想していた通り、一年二組の教室にも人っ子ひとりいない。
しばらく自分の机で呆然としていたが、仕方ないので帰ることにした。
廊下をとぼとぼ歩いていると、突然気が付いた。
あーっ、今日は運動会だ!
何かに気を取られて忘れていた訳ではなかった
うっかり忘れていたというならまだ救いがある。
今日が運動会だということに、たった今気が付いたのだ
そう言えば先週来、学校全体がザワザワガヤガヤと落ち着かなかった。
すなわち創作ダンスの通し稽古やら、ホームルームで配られたゼッケン、
揃いの鉢巻き、観客席の割り振り、ガリバン刷りのお知らせの数々、
突如として校庭に出現した巨大なベニヤ板のポスター数枚、
ダメ押しで「あしたお弁当どうしようかなあ」という帰り際の友人の不可解な独り言。
これらの意味が、突如として統合されたのだ。

注記:
   小学校5年にもなると普通学級に通う中で「発達の障害」の子供は顕著になってくる。
   ほとんどは、ADHDに含まれる落ち着きの無い子、授業中もしゃべり続ける子、その他で
   数も多いし先輩教師も経験があるからそのノウハウは教師仲間で蓄積されている。

   その教師が、教師生活の中で巡り会うか会わないかの子供が「アスペルガー症候群」の子供で
   対処法などのノウハウは皆無。実績のある書籍も無い。

   そんな子供を受け入れてくれるのが医療機関。今では少数であるが小児発達専門の機関が
   ある様だ。
   そこに集まってくる子供はすべて発達障害かというとそうでは無い。

   今ここで「情報の統合が出来ていない」例を挙げた。
   私達を含む同じ様な子供はよく「トンチンカンな事を言う」。
   これは情報の統合方法が普通に発達した子供より遅れているからだ。
   経験と知識の積み重ねで多少は誤魔化し方が上手くなるが、基本的な部分は変わる事は無い。

   さて、小児発達障害の専門医に集められた子供の中には、別の障害を持つ子供も含まれる。
   それが、統合失調症、或いは統合失調症の前段階の子供だ。
   雰囲気は自閉症の子供と似通っているし行動様式だけを見れば区別が付かない

   特に、情報の統合が出来ていないと言う所は全く同じだ。しかし大きな違いがある。
   やがて成長し統合失調症の症状が出る子供は、統合できない情報の元が人、他人、人間にある。

   漂流教室の情報はすべて事柄で、それらを上手く統合出来ていないから運動会に繋がらない。

   一方統合失調症は「心」を持っているから、「私の噂話をしている」「私の悪口を言っている」
   さらに成長して進行すると、「外に出ると全員がこっちを見る」と言い出したりするが、
   すべて対象物が人間だ。

   さらに簡単に言うと、「生まれつき統合が出来ない」が私達自閉症であり、
   「生まれたときは統合が出来ていて心を持つが、やがて統合が緩み始める」のが統合失調症。

   実際、精神科医の問題として、統合失調症と自閉症の混同が問題視されているし、
   自称発達障害のブログを見ると、自分を統合失調症と認めたく無い人が殆どである。



今日は運動会なのだ。
さあ大変だ。運動会はよそのグラウンドを借りて行われる。
私は急いで家に駆け戻り、体操服に着替えると、支給された鉢巻きをしめ、
ゼッケンとそれを縫いつける為の針と糸、弁当を持ち、
驚く母親に説明するのももどかしくグラウンドに向かった。
15分ほど走りに走り、やっと着いたときには吐きそうになっていたので、
「気分が悪くて遅れました」という言い訳が居ながらにして強い説得力を持った。
開会式はとっくに終わっており、競技が始まっていた。

     そして、静かな日常が戻ったある日。
家庭科の時間、みんなはミシンを踏んでいた。
突然「ちょっと来てくれる」、
あの日校門で出会った家庭科教師が手招きするではないか。
私は血の気が引いた。
てっきり運動会の事で怒られるのだろうと思い、クラゲ状態になって漂って行くと、



教師はやさしく「あなたのおうち遠いの?」と聞く。
安心した私が「いいえすぐ近くです。そこをまっすぐ行って信号渡って、五分くらいです。」
と詳しい道順を教えると、

次は「あなた体弱い?」と聞く。
「いいえ」と答えると、

今度は「あなたのおうち、躾けは厳しい?」と聞くので、
「そんなに厳しくないです」答えると、

教師は「・・・はい、いいわよ」と解放してくれた。

注記:
   この辺は現役の教師に是非聞きたい所。我こそと思う方コメントを。
   この家庭科教師は運動会の当日に着替えもせず一人で登校したこの子供の事情を探ろうと質問。

   しかし、ここに私達自閉症アスペルガー症候群の特徴が出ている。

   1.意図を見抜きふさわしい返答をする。と言う事が出来ない。

     今、61才の私がこう書いていても、彼女の返答は満点でこれ以外の解答が思い浮かばない。
     つまり、教師の質問には何か別の意図があるだろうと理解は出来るが、
     その見えない意図(メタ言語)はそのまんま見えない。今でも見えない。

   2.きっと特徴があるはずだが、私には余りに正しい答えなので特徴を指摘出来ない。



さっぱり訳がわからない
     そして、又静かな日常が戻ったある日。
私は二年生になっていた。

家庭科の授業の真っ最中、同じ教師が、突然「あなた太ったわよねえ」と言う。
教師の言う通りで、二年生になって急激に太ったので「はい」と言うと、
「かわいくなったわ、ねえ」とみんなに同意を求める。
みんなは大笑いするし、さっぱり訳がわからず

注記:
   私も訳が分からない。恐らく教師は自身の中でなんらかの結論を得て、
   太った美代子を改めて遡上に挙げその健康振りを確認し、納得出来たんだろう。



教師も「運動会の日にセーラー服で学校に来た変な子」の謎解きに
二年越しで苦しんでいたに違いない。

漂流教室
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つづく

【自閉症テレビ12】見て分かるアスペルガー

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マインドを獲得する境目 [SAM]

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ヒトは遅くとも22ヶ月で「自我」「マインド」を獲得します。
それ迄はヒトと同じ形をした動物ですが、「マインド」を得てヒト正常な人となります。






この事から、正常な人であるか無いか。「マインド」を獲得したかしないかで
自閉症であるか否かと言う事が明確になります。
つまり自閉症のグレーゾーンは存在しないと言う事が分かるのです。






「チョット待った!18ヶ月と22ヶ月に間がある。その間の状態はどうなる。それがグレーゾーンなん
 じゃ無いか?」






そうではありません。

18ヶ月から22ヶ月と言うのは、人の成長にはバラツキがあり18ヶ月から22ヶ月の間のどこかで、
「マインド」を得ると言う意味であり、その間の期間の事を言っているのではありません。

その子の成長が早ければ18ヶ月と1日で得るかも知れませんし、遅ければ21ヶ月と22日で得るのかも
知れません。






小学4年になると、第一次反抗期が訪れます。これも人の成長に伴うモノです。

第一次反抗期もいつ、どう言う形で訪れるのか厳格には分かっていませんが、この時期のドコかの
タイミングで訪れ、ある日突然親が気付きます。「ああ、反抗期か」気付いた時が反抗期の始まりです。






壁の電灯のスイッチを見て下さい。スイッチを入れると点灯します。スイッチを切ると消えます。
電灯のスイッチにはグレーゾーンはありません。






第一次反抗期もそうです。やはりグレーゾーンと言うべき部分は無視して良い程小さく
問題にすべきでは無いので、グレーゾーンはありません。






自閉症も同様です。「マインド」を持っていない幼児が「マインド」を得て正常な人になります。
電灯で言えば点灯している状態ですね。

「マインド」を持てないまま成長し続けているのが、自閉症スペクトル。自閉症でありアスペルガー
症候群であり、その他の呼び方の自閉症の仲間です。電灯は点いていません。

だからグレーゾーンはありません。






つまり、理論的「自閉症のグレーゾーンはあり得ないのです。



これほど正常な人にとっても自閉症者のとっても重要なマインド。
自閉症者にとってのマインドがどの様に働いているのか働いていないのか、ここまで読んで下さった
皆さんは大分理解されたと思います。さらにもう一歩深く知りたい方はこちらをお読み下さい。



【自閉症テレビ29】ファンタジーと自閉症2


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自閉症のいちばん分かり易い理解の仕方 [SAM]

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1989年 ローナ・ウイングを筆頭にアトウッド、バロンコーエン、フリス、ハッペ等の研究が結実し、
自閉症の理論的な定義が医学界で受け入れられ、判定基準となりました。

それまで、特に知恵遅れの子でも、果たしてその子供を自閉症と言うべきか否かは、おおよそでしか
判断出来なかったのです。






それが理論的に自閉症か否かを判断出来るようになり、知能が高い自閉症がいる事も証明されました。
その知能の高い自閉症を「アスペルガー症候群」とし、過去の呼び名を現在に蘇らせ流用しました。
古典的自閉症のカナー型から知能の高い自閉症アスペルガー症候群。
すべてのタイプを「自閉症スペクトル」に含まれるモノ、一つの障害として定義づけたのです。






此所に至るには、人工知能の生成ロジックや人間の認知研究の結果も非常に大きな力を発揮しました。
用語ばかりが難しい自閉症の理論ですが、最も分かり易いのが今日の話です。






子犬にカガミを見せます。子犬は仲間が居るかとカガミに鼻を付け、さらにカガミの裏側に回ります。
これで、カガミはカガミであり仲間では無いと知ります。そして、もう興味を持ちません。
トリから猿、イルカまで同じ行動をとります。  これは動物の行動です。






18ヶ月以前の幼児にカガミを見せます。カガミに向かって笑いかけたり、手で触ろうとしますが、
それで終わりです。これも動物と同じ行動です。






22ヶ月を過ぎた幼児にカガミを見せます。この時、鼻の頭にクリームを少し付けます。
鼻の頭にクリームを付けた顔を見て大笑い。すぐに自分の鼻にクリームが付いていると判断し、
鼻に付いたクリームを取ろうとしたり、大笑いしながら母親に見せようとしたりします。

この行動は、「カガミに映っているのは自分の姿である」と認識したと言う証明です。つまり「マインド」(この場合は自我)を持っている。自分と言うモノを認識していると言う事です。






この実験は、人間の認知を知る実験として広く知られ、ディスカバリーチャンネルでも非常に上手に
映像化されていますから、皆さんもテレビで見た事があると思います。






この18ヶ月から22ヶ月のほんの4ヶ月間に、人間は「マインド」「自我」を獲得する事をこうして
証明されたのです。
動物と同じ行動止まりだった幼児が、「マインド」「自我」を獲得し正常な人として成立した瞬間です。






一方「マインド」「自我」を獲得せず成長した人間が存在します。「マインド」「自我」を
持たない18ヶ月以前の幼児のまま成長したと言う事です。
その状態の人の事を「自閉症スペクトル」自閉症者と呼びます。
つまりサイモン・バロン=コーエンが「マインドブラインドネス」の理論で証明した人の事です。






ですから、正確な診断には22ヶ月以降になるまで待つ必要があるのです。

また非常に知能が高くこの指標をすり抜けた場合でも、その後の指標、例えば「サリーとアン」の課題
であったり、その他の判定基準とする課題があり必ずいつかどこかの時点で判定がつきます。






自閉症とは「マインド」を獲得出来ない事、つまり「マインドブラインドネス」である事。
「マインドブラインドネスの人、この人の事を自閉症と言う」と言う事なのです。






さらに分かり易く言うと、どんなに知能が高くてもマインドに於いては
「動物と同じレベル」と言う事なのです。






医師が知能の高い自閉症児を診察し、判断出来ず「グレーゾーン」とする事があったとしても、
自閉症の「グレーゾーン」は存在しません






「マインド」があるか無いか。「マインドブラインドネス」であるかどうかだけなのです。



理解出来ない人はコメントをどうぞ
【自閉症テレビ11】ホントの診断法アスペルガー


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